林道
談合坂の先に大月インターがあり、そのインターを下りるともう
山梨県である。
インターを下りて道を左へ曲がると禾生駅の方向である、途中に
「ほうとう屋」があり、その店の店構えや店主は地元ではちょっと
した名物である。
ほうとう屋を過ぎ、川を渡り禾生駅の方向へ進む。
その先にはリニアモーターカーを体験乗車できる設備があり、
リニアモーターカーの線路?レール?だろうか、それが山の合間に
架橋のような格好で施設されてる。
そのまま車で5分ほど道を進むと禾生駅が右手にある。
禾生駅は小さな駅で地元民でなければ見落としてしまうくらいの駅である。
更に先へ進むと民家は少なくなり、周りの景色も森林だけとなる。その道
を真っ直ぐ抜けると富士急ハイランドのほうへ出るらしい。
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私が道に迷ったのはちょうどその辺の山だった。
季節はこの時期で時刻は深夜、蒸し暑いはずの気温がそうでもなく、車の
窓を開けても聞こえるのは虫の声と川のせせらぎだけ。一度行っただけの
山道は霧がかかっており、草木も生い茂り以前とは様相が一変していた。
たぶんこの道だと見当をつけて入った山道だったが、まるで目的地に着かない。
おかしい!確かにあの別荘の前を通って・・・だった筈だが?
などなど、何度も同じ道を繰り返しているような、不納得な不安な気持ち。
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迷ってしまった時の典型的な心理状態に陥ったのである。
引き返そうにも車がやっと一台通れるような山道である、看板はおろか道路
標識など全く無いのである。だんだん道幅は狭くなり、行き止まりになって
ようやく進行方向を変えるといったお粗末ぶりである。
それでも何とか見覚えのある場所にたどり着き、やっとの思いで抜け出した
と思った次の瞬間には、まったく場違いな川や橋があったり・・・
車での移動は移動距離があるので、とんでもない方向を彷徨うものなのだ。
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そのうち気分が悪くなってきた、目が回るような車酔いの気分だ。
まさか自分が運転していて車酔いなど聞いたこともない!
でも実際に脂汗がにじみ悪寒のような肌寒さを感じ始めていた。
持参していた飲料水も底をつき、タバコを吸っても吐き気がするだけ。
山中で車を停めて暫く休んだが、一向に気分は良くならない。
仕方なく走り出したが、そのうち雨が降り出して視界が悪くなってきた。
ガソリンだけは大丈夫だが、こんな場所で脱輪でもしたらエライことだ!
何だか息苦しくなり脈拍も上がった、吐き気も酷くなり頭痛と歯痛もした。
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休んではまた運転し・・・
そんな事をかれこれ2時間ぐらいしていただろうか。
あれは一種のパニックだったのかもしれない、冷静になればナビを使えば
簡単に戻れただろうし、日が上るまで待ってれば良かったのだ。だがその
時はそんな事は考えない、こんな田舎まで来てこんな山道なんかに迷って
たまるか!目的地を探してやる!!みたいな無謀な根性論と、山が拒んで
いるのか?俺は来てはいけない場所へ来てしまったのか?みたいな迷信的
な気持ちが複雑に入り混じっていた。
結局は後者の方の気持ちが強くなり、もと来た道をバックで戻った。
後方は前方よりも尚視界が悪い、大きく身を乗り出してバックライト
を頼りの雨中バック走行である。鹿かイノシシにぶつかってもおかしくな
いような視界の悪さなのだ、おかげで腰痛まで加わって散々な目にあった。
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談合坂のパーキングエリアへフラフラになりながら辿り着いたのだが、も
う時刻は旭を拝む時間だった。
そこから力を振り絞って中央道から首都高を池袋へ向かったわけだが、あれ
も危険な行動だったと今では思う。自分では大丈夫と思って行動してしまう
判断が判断ミスである事に気付かないのだ。
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帰りの道中で私が考えていたのは、いつか弟が話してくれた話だった。
昭南神社へ行ってみようと散策しようとして、私と同じような目にあったと
いう話だ。シンガポールとはいえ、住みなれた弟にしてみればちょっとした
近所への散策だったのだ。バックパッカーとして一年かけて世界一周をした
ほどの慎重な性格の弟でさえも、ご近所で迷子になりパニックに陥ったと
いう話である。
人間はパニックになると通常では考えられないような判断をしてしまうし、
またそんな状況は誰にでも簡単に身近に起こりえるという内容だった。
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私は疲れきった体で、そんな事をボーと考えながら高速道路を制限速度より
速い速度で走っていたわけだ。
ハインリッヒの法則ではないが、その頂点のほうでなくて良かった。
明日は弟が帰国してくるので改めてお互いの無事を喜び合おうと思い、回想
をしながら書いている。
明日からヘルパースクールは盆休み、何をしようかな。
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レジャーの季節ですが皆様も知らない道には気をつけましょう。
特に山には気をつけましょう。
それと、読んでないでしょうが
女の子と男の子は、知らないオジサンに気をつけましょう。
〜盛夏〜
「昭南神社」
1942年2月に日本軍はシンガポールの戦いに勝利し、シンガポールを「昭南島」
と改称し、日本の占領統治下においた。シンガポールにおいても他の占領地同
様に日本式の神社を建立されることになり、1943年11月に英豪捕虜を使役しマ
クリチ水源地内のジャングルの中に創建した。社殿は日本から宮大工を呼寄せ
たりヒノキ材を搬入したうえで内地と同様なものがつくられた。また境内には
「昭南忠霊碑」も建立した。そのためシンガポールにおける住民の皇民化政策
の一環と見なされている。なお神社は日本が全面降伏した後に日本軍の手によ
って爆破処分された。現在では本殿跡地は放置されている状況であり、その他
の境内部分はゴルフ場の一部となっている。
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169720 H22 8月12日 AM0時10分