問題児

井の中の蛙大海を知らず、されど井戸の深さを知る。」
良くも悪くもこれが、現在の私が介護業界に抱いている漠然とした
違和感であり、たぶん外れてはないであろう。

私は授業中よく、講師に対し質問をする。
内容的には他愛も無い質問もあるが、大真面目な質問もある。
質問するという行為は、講師に対する礼でもあり挑戦でもある。
それだけ授業に熱心であり、今後においても真剣な覚悟があるからだ。
ところが、それはなかなか理解されない、むしろ熱意は誤解を生じる。
正論と感情論とを上手く分離できないのは分かる、ディベートのような
ものに慣れておらず私のような質問に対処できないのも分かる。
それも十分考慮のうえで質問をしているつもりだ。
私の質問が、まるで「モシモシ子供相談室」みたいで、質問の本意さえ
理解されてないであろうと譲歩もしている。(授業が止まってしまうので)
一介の受講生が今の段階でする質問でもない事も承知している。
だから私は私なりにかなり手加減をしているし、されてもいるつもりだ。
勿論、思い上がっているわけではない、講師を困惑させようとしてもいない。
それだけ本音だってことだ。
これからの私の一生の仕事になるだろうからと、一生徒が石橋を叩いているだけなのだ。
隙間だらけの介護業界の中に、とてつもない宝が眠っているような気がして
、とっさに閃いたような商法が可能かどうか聞いているだけなのだ。
私は介護に関しては、技術も経験も無いド素人だ。
そんなド素人が大志を抱いているだけ、だというのに。
もっと言えば、介護のような純粋な献身的な職業をやってこられたような
本当に心の優しい人たちと、サシで話ができるという事だけで私は心が痺れる
ほど感激しているだけだっていうのに。

残念ながら私の質問に対し、まともに返答してくれるのは担任だけだ。
殆どの講師は私の顔色ばかり伺いながら授業をしている、それがバレバレ。
業界のキャリアたち、言うなれば生え抜きのエリート達でさえそうなのだから
、だから介護という業界にちょっとした失望を感じている。
学を積んだ講師陣やチームリーダーと称する現場の者でさえ窮するようでは、
さらにその下の遥かに未熟な若造に、顎で使われてヘコヘコしなくてはならない
私の未来の姿はあまりに苦痛であるのだ。

ではどうする?
仮面を被って、まったく無害な人間として振舞うのは得意だ。
だがそれで本当に、熱意をもって仕事に打ち込んでいると言えるのか?
当座の様子見でどこかに潜り込んで、その実自分を理解するスポンサー探し
でもすればいいのか?それも簡単だ。だがそれも職場の仲間を裏切っていると
言えないか?
出来る事なら自分に偽装をしたくない、そういった二面性のある自分を消去
したくて、本当の真心の仕事がしたいからこそ介護業界じゃなかったのか?
すると、孤軍奮闘しか道はないのか?
ヤバイ、このままじゃ、どこへ行っても問題児か危険人物になってしまう。

それでは本末転倒である。
この辺で少し力を抜いて考えてみなくてはならないかも。
あまりに講師を聖人君子として捉え過ぎていたかもしれない。
私のような人間を受講生の一人として受講させてくれて、人生のやり直し
に力を貸してくれている関係各位の方々に感謝し過ぎていたのでは?
私も頑なになっていたのでは?
そうであれば、私は自己満足によって誤った重圧をかけていた事になる。
考えてもみれば、会長のように私を納得させてくれる人など希少な筈だ。
介護の世界しか知らない人にとって、私の経験値や人生観などまったくの
番外であり、ひょっとしたら脅しにさえ解釈されたやもしれぬ。
私も素直に「井戸の深さ」だけを教えてもらえば良かったのかもしれない。

それに、これも偏に私がまだ「大海を知れぬ」故かもしれない。
確信犯のように「モシモシ子供電話相談室」みたいな所業は罪であったかも。
まだ何も成してない私の戯言は、厚顔無恥そのものか・・・。
そうなのか?
まだ分からないが、漠然とした違和感とはそこにある感覚なのだ。
失敗せぬ為にも、考え方を改めて違った角度で検討してみるべきだと思う。

一例をあげよう。
私が通わせて頂いているヘルパースクールの母体は業界用語でいう「特養」
である。正式には「特別養護老人ホーム」である。
何が特別かって平たく書けば、脳なり体なりが普通でない老人を世話する
施設なのだ。その建物の一角を我々受講生のための教室として提供している。
だから授業中の教室に、ボケてしまった老人がフラ〜と、入って来る事もある。
そんな時のクラスの反応はどうかと言うと、元々心優しい老人好きである。
「あら、○○さん!入って来ちゃったの?」
「かわいい〜」
「一緒に授業うけましょ」、みたいなウエルカムムードである。
それは私も否定しない、普段その老人が行き来する場所に突然教室ができてしま
い、それを理解しないその老人は自分も若き頃の生徒になってしまい一緒に
授業を受けようと生徒の横へ座ろうとする。
もしかしたら、その老人は授業というものを受けた事がなく、興味本位から
教室に参加しようとしたかもしれぬ。
クラスメイトもまた親切に、自分のテキストを老人に貸して二人で見ていた。
何とも心癒される場面ではないだろうか。
ここでは老人もちょっとしたアイドルなのである。

さて、ここまで読んでみて
何が「一例をあげよう」なの?、どこが問題なの?とは思わないか?
何を提議しようとしてるか分からない、のではないか?
もう一度21行前の「一例をあげよう」から読み直し気付いてもらいたい。

私に言わせれば、「そこ」が問題なのだ。
そこに違和感というか問題があり、かなり難問であると思うのだ。
頭の回転が速い方なら私が何を言わんとしてるか察してくれただろう。

意識改革の重要性と難易度というやつだ。
普段無意識に使っている言葉、そこに悪意はないのは分かる。
時代の流れと共に言葉の意味も変化してくるから仕方ないのも分かる。
だが、本気で老人側の気持ちになって考えれば「かわいい〜」という
呼びかけは如何なものだろう?
老人の記憶、特に痴呆が進んだ状態では過去の記憶ほど鮮明だという。
だとすれば、老人にとり鮮明な記憶は戦中戦後ではないか?
その彼らが身を挺して護ったものは何だった?
それは未来の日本であり、それは正しく我々のことではないか!
その命を掛けて護った我々に「かわいい」と、言われて嬉しいだろうか?
その時代、「かわいい」などという言葉は馬鹿にされているような言葉で
はなかったか?
「かわいい」と言われて喜ぶ老人を私は見たことがないよ。
そこらへんは、よく研究すべきじゃないかな。

アイドルならまだいいが、中には幼い子供、ペットに対するような感覚で
「かわいい」を連発してないだろうか?
「かわいい」に疑問を抱けない「そこ」が問題ではないかと思わないか?
私の考えすぎだろうか?頑ななところなのだろうか?勘違いなのか?
人生の大先輩に対し、畏敬の念こそあれ、例え痴呆でそうなった方に対しても
見下げたような心や言葉はあってはならない。
それが介護職の本質ではなかったのか?

そして、その旨の本質に対する質問(性、排泄)でさえ
受ける側によっては「問題児、異端児、危険人物」と、されてしまう。
失望を禁じえぬ理由はこれ。

「失望ありきはまた希望あり」この言葉を信じてやるしかない。
情けないかな、今の私には何の力も無い、実績も無い。
しかも、その逆は人様よりもちょっとばかり多いときてる。
だからこれは私にとっての、大きな宿題である。
その意識改革の啓蒙活動一つとっても、果てしなく永いような気がする。

スクールのほうは学科がほぼ終了し、あとは卒業まで実習がメインである。
どこまで出来るか自信がないが、少なくとも卒業するまでは事故の無いように
やってみようと思っている。

170674 H22 8月25日 AM2時5分