金が必要な理由

野心家であってみたり、
儲かりそうな商売を選んでみたり、するが。

その目的は金を得る事。
ただ暮らしていける程度ではなく大金。

そしてその金をどうしたいのか。

守銭奴のように掻き集めたいだけなのか、
蓄財という安心を手中にしたいからか、
贅沢三昧な奢った暮らしに投じたいのか、
子孫に残して銅像でも建てて欲しいのか、

私は違う。
私の目的は、私の考えを広く知ってもらいたいから。

ではどんな破廉恥な狂気な考えかって?
笑わせてくれる、
そう思うようなヤツとは、関わりたくないと思ってるのが本心。

この場所から発信する以上、必要ありとして書いている内容も多いが、
それは別人格での話。

何を今更「別人格」とか、自分を弁護するような言い回しを!
と、思う人も多いだろう。
別人格とはいえ、それも立派なお前の人格の一部だろ〜!と。

はい、それは認めます。
私は情けない人間です、未練もたらたら、欲も多くて書ききれません。
そんな私ですが、根底にある心は別の場で活動したく思っております。

ん〜??
何が言いたい?
結局は、何か言いたい事があるんだな。
それなら初めから言えばいいだろ!
いつもみたいに、自分勝手に書き殴ればいいだろ。

はい、そうかもしれません。
でもここに書いてもあまり意味がないような気がしてしまい・・・
あなたも時々そう思うことありませんか?
自分は何故ここにいるのか、そんなことしてるのか、何のために、とか、
居場所を間違えていると、ふっともう1人の自分に囁かれたりしませんか?
今日はそんな日なのです。

病んでるのか?
まぁいい、言いたい事があるなら書けばいいだろ、お前の自由だよ。
ごちゃごちゃ言ってると、あれだぞ、相手にされなくなるぞ!

いいえ、病んでなどいません。素直ではないからです。
単に行数稼ぎをしたかっただけです。
アナタに登場してもらったのも、ちょっと会話形式にするといいかなと。
これから紹介したい文章が長いので、それだけをコピーしたのでは私の
日記にならないから、それではあまりに芸がないから。
そのくらい今から紹介する文章は素晴らしく、多くの人にも知られてます。
私が行き着きたい「心」またはそのようにしたいこと。
世の中がそうでなければならない、必ずそのような世の中にしてやる。
という文章です。(宗教の部分は切り離して下さい。)


そして、その為には大金が必要なのです。


以下どうぞ読んで感じて下さい。(以下コピー)

かつて、アインシュタインが日本を訪問された時、仏教について知りたいということで、
真宗大谷派の僧侶、近角常観先生と対談されたことがありました。

その対談の中で、アインシュタイン

「仏さまとはどんなお方ですか」

と尋ねられたそうです。

そこで近角先生は、姥捨て山にまつわる伝説を例にあげて、説明されました。

姥捨て山のことは、皆さんよくご存知のことと思います。

食糧事情の貧しかったその昔、日本のある地域では一定の年齢に達した老人は

、口減らしのために山に捨てられるという風習のことです。

そんな悲しい風習の残っていた頃の話です。

信濃の国の姥捨て山の麓に住む、ある若い農夫が.老いた母親を捨てに行くこと

になったのです。

たとえ親思いの息子であっても、村の提に背くわけにはいきません。

背けば家族は村におれなくなります。

若い農夫は村の提に従って、母親を龍に乗せ、姥捨て山へと向かっていったのです。

ところが、その道すがら,背中に負われた母親が、しきりに木の枝を折っては道々に

捨てていくのです。

これを見た若者は、

「ひょっとして、母親は山奥に捨てられる恐怖心に耐えかねて、この落とした枝をた

どって、また家に帰ってくるつもりではないのか」と疑ったのです。

「気丈な母親でも、やはり最期は自分のことしか考えないのか」

と、少し蔑むような目で見ていました。

どのくらい歩いたでしょうか、とうとう捨て場所と思しきところにやってきました。

息子は母親を背中から降ろし、別れを告げて帰ろうとしました。

その時、母親は息子の袖を捕まえて言うのです。

「いよいよこれがお前との一生の別れじゃ。身体に気をつけるんだよ。ずい分山奥まで

入ったから、お前が家に帰るのに道に迷って困るだろうと思って、私が来る道すがら、

小枝を落として目印をしておいたから、それを頼りに、無事家に帰るんだよ。そして

立派に跡をついでおくれ」

そう言って、母親は息子に手を合わせるのです。

その母親の姿を見て若者は泣き崩れました。

こちらは母親を捨てているのに、母はこちらをこんなに憂いている。

こんな母をどうして捨てられようか、息子は思わず知らず、草むらに両手を着いて

「どうかこの龍にお乗り下さい。これから我が家に御伴して、一代の限りお仕えいたします」

と言って、再び母を背負って山を降りたということです。

日本には古くから次のような古歌が残っています。

「奥山に枝折る莱は誰がためぞ親を捨てんといそぐ子のため」

ここまで話をされた近角先生はアインシュタインに、

「この母親の姿こそ、仏さまの姿であります」とおっしやられたのです。

年老いた母親は、このまま捨ておかれたら、その夜のうちに凍え死ぬか狼のえさに

なるでしょう。そうでなくても数日中には餓死するでしょう。

そんな状況にありながらも、母親は自分のことは一切顧みないで、ひたすら我が子が無事

家に帰れるかどうかだけを心配しているのです。

母は、今まさに自分を捨てようとしている我が子を見捨てることが出来ないのです。

自分を殺そうとしている者をどこまでも生かそうとするのです。

これが仏さまの心だと言うのです。

涙を湛えてこの話を聞いておられたアインシュタインは、帰国するに臨んで、

「日本人がこのような温かい深い宗教を持っていることはこの上もない幸せなことです。
日本に来てこんな素晴らしい教えに出道えたことは私にとって何にも勝るものでした」

と語ったそうです。


275816 (135) H24 11月8日    AM5時10分