文人木のように

人に裏切られたり裏切ったり、人の生き様は多様であり、それに
感情や環境を組み合わせると それは人間の数と同数になる。
その中で一番人間らしく生きる、正しく生きるなどと大それたことは
誰にも出来ない、例えどんな偉業を成した人物であろうと地位にある
者であろうと、それは無理だ。
では何故、人間らしく生きようと思うのか?それは人間らしくではなく、
自分らしくの同意語のせいであろう。自分らしく生きるのであれば各々
が正解である それは全てを自分の責任のもと、判断して生きればいい
からである。 私の知るある男は、生前とても彼らしく生きた人間だった。
彼はある時は勇ましく、ある時は弱々しく女々しく、彼は最期まで煩悩を
捨てきれず、かといって自分の道を全う出来なかった、しかしそれが彼ら
しさであり彼の人生だった。彼は生前よく言っていた、どこかの本でも読
んだのか「人は死ぬ事が悟りではなく、平気で生きることが悟りだ」と。
禅の教えにも在る通り、その言葉は真であろう 咲いた花が褒められても
褒められなくても時が来れば散ってゆくように、人もありのまま生きて
死んでいければどんなにか往生するだろう、だが「白雲自去来」という言葉
の通り、欲望も果てしなく湧き出るし、人間としての本分を超えてしまう事
も多くある。 では欲望を捨てるのが人間として正しいのか?それはたぶん
否であろう、そんな事をしていては人間は滅んでしまうし、現世では生きて
ゆけぬ、人間は生きていく以上 最低限の欲望と、人に迷惑をかけなければ
生きていけない生物だと思う。
私も一時は、文人木のように一生を終わりたいと思った時期がある。
ひっそりと、大事なものを少しずつ失いながら、かすかに生きてみたいと思
った、だがそれは大変な忍耐と心に大きな傷をつくるものであって「満足」
とはかけ離れたものだった。裏切りも文人木の一つであり、ある筈の枝を失い
ある筈の財を失う苦痛には絶句したものだ。私は文人木の様になりたいという
志により枯れかけた、そして枯れかけてはじめて、新芽の有り難さ、陽の光
の暖かさの大切さを悟った。やはり人は無理に自分を変えようと思ってはいけ
ないものだ、無理をすると代償が大き過ぎるからである、では如何に自分らし
く生きるかという視点で自分を見つめ直すと、以外にも答えは簡単にでてくる
ものだ、何もカッコよく生きる必要など無い 特別な存在でもなく、どこにで
もいる様な人間でさえあれば、自分らしく強いては人間らしく生きていける事
に気が付くのだ。 私の知るその彼は、一生悩み救われぬ自分を悩みぬいて死
んでいったが、私が思うに「悩むもまた人生」であるから、彼にとっては悩み
をもつ事も宿命であったのだろうと推察する、故に彼はある意味 彼らしく
人間らしく生きた人間と思えるのだ。