トマト

庭の菜園、他の作物は干上がって全て枯れてしまったが、トマトだけは
1本だけ大きく育っている。
背の高さは2Fに届きそうな勢いで、ゆうに2m以上ある。
それにひきかえ実は3つだけである。

米原産のこの種の植物は、乾燥気味の気候の地が適しているから、
私が菜園に水遣りをあまりしなかったことが幸いしたようだ。

農家でも、美味しいトマトを作るには「イジメル」らしい。
イジメルとは、限界ギリギリまで水をやらない事。
水をやらないと植物は枯れるので、枯れまいと必死に根を張る、そして
子孫を残そうと花を咲かせて結実する、その過程で水分が不足していると
なると、自然と実の成る数も減らすのである。
そして水分が少ないと糖度も増すので美味しいトマトになるそうだ。

通常の育て方では、大玉トマトで1本の木から20〜30を収穫する。
水耕となると話は別だが、一般の土耕ではそんなものだ。
私の今回の場合は、期せずして1本の木から数個となっているのだが、
これが怪我の功名というのだろうか?
「イジメ」ならぬ「虐待」の産物として、1本の大きな木から数個だけ
収穫されるということは、その分凝縮されているということ。
その完熟した味に期待するものは大なのです。

今回の菜園には、土作りの際に発見したメイの遺物のおかげで、通年よ
りも思い入れがある筈だ。
それならば毎日でも水遣りをして成長を楽しむ筈である。
そうである筈なのに今回はまるで放置。
「生き残るヤツだけ残れ」
「限界までいく」
と、まるでサバイバルな育て方だった。

今まで自分でも気付けなかったが、
これは一種の狂気、無気力、無関心ではなく、放置放任しているようだが、
心の芯の部分では強い期待感を抱いていたのでは?
何の計算も、保険も、あてもないが、何かは必ず結果を残すだろう。

まるで、今の自分の立場を菜園に投影していたかのような・・・・。
そんな気がしてならないのです。

何と表現したらいいのか解らないけど、
「このまま終わるわけはない」
「必ず次がある」
「結果をだす場所が必ずある」
「まだそれが見えないだけ」  みたいな・・・。

表現の仕方を美化しすぎそうで、もっと違う言い方があるだろうが、
何ていうのだろう・・・
焦燥に駆り立てられて無駄な動きをするのではなく、
貧乏の困窮に、狂人のフリや開き直りをするのでもなく、
ギリギリの中で、苦しい中での静観・・・かな?
そして、最後の最後、行き詰った頃にもがきだす。
そのもがきの時こそが、後からみれば最高の輝きを放っている時、
その時は苦しくて死にそうだが、
後からみれば最も充実しながら生きている時、
それを知っているから、「その時」を待っているのかも?

日々の生活の糧を得るだけの愚鈍な人生は送りたくない、
でも「その時」とは?
一体何をすればいいんだ?私の立ち位置はどこにあるんだろう?
そういった不安と期待が妄想となり、日々葛藤しているのです。

ともあれ、
完熟した最高傑作を食べてみるのが楽しみだ。
メイを思い出して、メイが使っていた皿に盛って食べてみよう。
あの
艶やかな、フサフサとして柔らかい背を、もう一度撫でてやりたい。

263782 (356)   H24 8月23日 PM11時55分