秋雨
現場を離れ熱の冷めてきた視線で、もう一度考えてみる。
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(例えば職場の古カブ)
弱い者には強いくせに、
強い者には己があたかも道徳者のように振舞う、
いったん己の不利を悟ると、今度は己の弱さを強調する、
そして、そんな輩をも「組織の仲間」という理由でかばい合う。
それは「優しさ」ではない、鬱屈した卑怯者のそれだ。
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そういった体質が介護業界の中にはあるように思う。
弱い心、卑怯者の戦略、敗北者たちの最後の抵抗。
弱いが故に毅然となれず逃げるためだけの邪な発想、
まるで話しにならないという呆れた横顔さえ感じる。
こんな事だから介護職に対する世間の評価は低いのである。
「老人のシモの世話をやらせておけばいい、心優しい人達という着ぐ
るみを着させておいてやろうじゃないか、弱い羊たちなんだから。」
と、心の中で嘲笑されているのではないか?
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仕事と作業の違いをまるで認識していない、気付いてもないのでは?
(考えた事もなければ言われても理解もできないだろう。)
決められた枠の中でしか動けない、動かない、動いてはいけないと思っ
ている、動こうとする者は牽制される。だからフロンティア精神の
芽生えも少ない、あってもほんの僅かなもので、しかもそれに満足してる。
決まった事柄を同じように、工夫もせずに同じようにやる人間を重宝し、
そういった人間が毎日している作業を仕事と称して認識している。
毎日同じ景色の中で、同じような作業を、教えられたようにだけ、そんな
指示を待つだけのようなロボット的な人が、介護職に求められてる人物像なのだ。
毎日の生活や仕事の中に、大きな変化などあってはならないのである。
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何かに似ていると思わないか?この事なかれ主義の権化のような様を。
私の経験では留置所に近いものだと感じた。
一層の真心や気付きや気転も「過剰」と判断され、注意される。
手錠こそされてないが、心も行動もその時の気分で縛ろうとするのである。
介護という世間体のいい皮を被り、実は見せかけの自由の牢獄、規則という
名の下に、その自由の牢獄の番人になりたがっている愚か者もいる。
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当初、漠然と感じていた違和感とうか理不尽な気持ち、それが何だったのか、
やっとその正体を掴んだような気がする。
「どうしてやってないの?」「何故できないの?」といった疑問。
これを解明しようと考え続けてきたがやっと気付いた。
その答えとは「そこが単純に羊の群れ」だったからだ。
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ある友人に言われた事がある。
「そりゃ沖本ちゃん、そういう介護なんて仕事の人達って、もともと
心の優しい人達でしょ、言い換えりゃ羊のような弱い部類なんだよ。
その中に沖本ちゃんが羊のカッコして入っていったわけでしょ!向こう
は牙も爪も見たこともないんだぜ、TVや映画では見たことあるぐらい
で実際には触れたこともないんだぜ。それをチラとでも見たら驚くだろ
うし怖いと感じるだろうよ、沖ちゃんにその気はなくってもさ」と。
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そうなのだ、そこが私との温度差なのだ。
私は牙も爪も使ってないと思ってた、あったとしても隠しきっていると
思っていた。そういったものを全て捨て去りたいとも願っていた。
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ところが、その考えがもともと間違っていた事に気付いたのだ。
隠そうとするからボロがでる、メッキが剥がれた瞬間に相手は面食らう、
危険な野獣か毒のある蛇か植物の棘か虫のように、過敏に危険視される。
ならば初めから宣言すればいいのではないかと。
「僕は納豆みたいに臭いかもしれませんが食べれば美味しいですよ」って。
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私は金も地位も名誉も名もない。
年齢も40半ば、腰痛持ち、欠損箇所あり、不眠症、精神的病持ち、
家庭なし、扶養家族なし、保険等なし、介護職の経験なし。
何〜んにもなし、将来の可能性だって若人に比べればかなり低い。
申請こそしてないが私は障害者である。カタワ者である。
だから社会弱者だと自覚していた。
だからこそ弱い者の気持ちが痛いほど分かるし、それをいたわり、
それを仕事として日々の糧として心静かに暮らしてゆける場所を求めた。
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それが間違っていた事に気付いたのだ。
「相憐れみ傷を舐めあおうとしていたのではないか?」って事に。
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全然違う発想だったんだよね、やっぱり介護職の人の心は強い。
何でかって?
弱そうに見えても、更に弱い立場の人達を守ろうと生活を維持させよ
うと、悪戦苦闘しているではないか。
それは優しさという強さであり立派だ。
介護の職場なんてもんは、もともと女性が多い職場、いわば女の園。
多少嫌味な遠まわしな部分があるのは必然、それは逆に言い換えれば
全てに勝る強烈な母性の裏打ちでもある。
そういった女独特の難しさを分かりつつ、仕事を理解すべく視界を持つ
べきであったのだ、ただの熱意や感傷ではダメなのだ。
それが出来て、心得てる者が頼りにされ勤まっている者な訳だよな。
弱いとか強いではなく、まず第一に優しいってのが大事。
厳しさの中に優しさか、優しさの中に厳しさか、それは色々あるだろう。
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私が植物に対してやる事と、よく思う感情。
「せっかく芽が出たんだから、どうにでも出来るがどうにかしてやりたい」
毎日同じように水をやり、日を当て、施肥雑草とり、語りかける。
場所が窮屈そうなら植え替えもする。
そういった変わらぬ環境、習慣を維持させることが大事なのだ。
急激な変化など危険きわまりないものであり必要も無い。
「維持」が、する事であって通常以上は「過剰」であって枯れてしまう。
介護の仕事とまったく類似しているではないか!
介護に於いては「どうにも出来るが」、だけを取り除けばいい。
「せっかく出会ったんだから、出来る事をさせてもらう」
これでいいんじゃないだろうか?
つまり静かに戦えばいいわけで、こちらの傷口まで癒そうなんて甘い事
を考えていた私はやっぱり愚かだったのだ。
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やはり単純なものこそ難しいものである。
それにしても問題は、「納豆を食ってみようか」って思う者がどれぐ
らい介護業界にいるかって事だ。
そういった勇気に関しては、残念ながらちょっと少ないのではと思う。
すなわち私は就職氷河期を今後も体験し続ける事になるのだろう。
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上記は9月15日の中の、
「2、羊の群れでは弱者は守れぬ、偽善は捨てよ。」ってやつね。
心得を忘れちゃうといけないんで書いてみた。
ま、人の心なんかコロコロ変わるからね、明日はどういうこと思ってるだろ?
私も少しずつでいいから良い方向へ変わっていきたいな。
今日も寒いな秋雨だろうか?
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173437 H22 9月27日 AM11時20分