価値

お世話になってる社長が、軽いポリープの除去手術をしたので全快の
先祝いとして、社長の家の玄関前に皐月の記念植樹をした。
皐月の中でも、一番後期に咲く「暁天」という名前の種類だ、
名花「華宝」の枝変わり(突然変異)ピンク地に伊達絞り、白
絞りなどの模様が入る一重大輪の名花中の名花である。
この樹は私の妹が、小金井に住んでおり家族で桜堤という場所
の花見に行った際、偶然通りかかった農家の畑の片隅に枯れかけた
皐月の盆栽を見つけ、その農家の人に「それを譲ってもらえませんか?」
と尋ねた事から話ははじまる、私は立派な盆栽や商品価値のあるような
ものは好まない、むしろ見捨てられ枯れかけたような盆栽や蘭などの
植物を貰ってきて再生させる事に喜びを感じるタイプなのだ、枯れかけた
植物を見ると放っておけない性分なのだ、だから私のコレクションは全て
三流品ばかりで、「国風展」に出展できるような代物は一点もない、だが
世話をすれば花も咲くし、咲いた花は一級品にも勝るほどの思い入れで
鑑賞できるものだ「出来の悪い子ほどかわいい」というが、私は花にも
それは通じるものであると感じている。さて話を戻すが、農家の人は私の
申し入れに驚き、「枯れたので燃やそうと思い干していたんですよ、もっ
と良いのが裏にあるから好きなのを持っていってよ」と裏庭に案内してく
れた、その農家は皐月の生産農家を先代までやっていたらしく、多くの
立派な樹が所狭しと植わっていた、そしてその場所にも掘り上げられ、干
され焼却を待っている皐月の一団があった、「皐月は売れないから捨てて
菜っ葉でもやろうと思うのよ」と、その人が言うので破格の金額で何本か
入手したのである。その人の話によれば昭和43年に当時の大金で仕入
た苗だったというから、約40年ものの樹ということになる、皐月の寿命
からすれば、まだまだ若木である。当時の書物を読めば皐月は投機の対象
にもなってっていたらしい、年々高層建築が主流となり「庭」がなくなり
つつある時代ではあるが40年間育ち続けた樹が「売れないから」という
理由だけで捨てられるのは如何なものかと私は思う。合理化の為には仕方
ない事情もあるのだろうが、「樹」だけではなく この日本が捨ててきた
大切なものも多い筈だ、だからかもしれない私は「捨てられそうなもの」
に哀愁を感じる。今日植樹した「暁天」も不恰好な樹である、だが来年の
6月には素晴らしい花を咲かせ、我々の目を楽しませてくれるだろう。