真夏の憂鬱

先日、退院が延期されるかもしれないという話を前妻から聞いていたの
で、まさかとは思いつつも心配だったので、前妻に確認してみた私だっ
た。予定では今月の10日に退院で、それをヒロ君も指折り数えている。
毎日欠かさず病院から電話してくるヒロ君の気持ちを考えると、それは
「早く出してくれ」と、言っているように思えたからだ。
「ヒロ君の希望する引き取り先があるのなら、退院させ通院に切り替え
てもいい」と病院からは言われたと前妻。それならそうすればいいのに、
何故か前妻は子供の退院を渋ってる、何故なんだ?
今回も「主治医の判断だから」「アンタが引き取って育ててくれるわ
け?」「法的にも手続きも、収入や子供の環境に相応しい場所だって」
「これからお金が沢山かかるのにアンタ出来るの?」みたいな事務的な
冷たい言葉。
この期に及んでまだそんな事を言い、悪意の「閉じ込めの刑」を続行し
ようとしてるな?と、感じた私はそこで堪忍袋の緒が切れた。
「お前おかしくないか?それを病院に頼むのは保護者であるお前の立
場だろ?自分の子供をいつまでも病院に閉じ込めて心が痛まないか?
子供はペットじゃないんだぞ、早く出してやれよ。いいか、今までの一
ヶ月は仕方ないとしても、出たいと思っている子供を閉じ込めておくの
は、これからの一ヶ月は深い傷になるぞ、悪い結果になることは目に見
えてるじゃないか、話にならんな。」などと、口論開始の火蓋を切った。
そしてお互いに言い分を昔の夫婦の時のように言い争った。と言うのも、
只でさえヒロ君は中学二年の夏休みという期間を、精神病院へ強制入院
という憂き目に合っている。だが今は夏休み期間という隠れ蓑だ、それ
が新学期が始まっても入院していたら同級生はどう思うだろうか?色
眼鏡で見られやしないか?彼にとり更生は困難になるであろう、少なく
とも家庭で温かく見守ってやるのが当たり前だろうと思ったからだっ
た。
ところが私じゃまったく前妻に歯がたたない。ましてや保護者でもない
私には法的な根拠もなく、まるでピエロ。人騒がせをしてジタバタして
いる道化師のように「そんな事言われたって、夫婦じゃないんだから私
たちが口喧嘩したって時間の無駄よ」と、ピシャリとされてしまった。
しかも「気持ちは分かるけど、そう熱くならないでよ」と、嗜めるよう
な言葉まで前妻に言われ、見下すように私はあしらわれた。
そう言われてしまえば身も蓋もない、私は悔しいしヒロ君が可哀想だと
思いながらも、性悪女には関わり合いたくないものだと思いながらも電
話を切るしかなかった。

PM3時、私はいたたまれなくなり、また退院の延期を本人は知ってい
るのか心配になり、どう話していいか分からないと思いながらも私の方
からヒロ君へ電話した。
いつもなら、就寝前PM7時ぐらいに必ず電話してくるヒロ君だ。当然
起きているであろうヒロ君なのに、まだ寝ていたようだった。
眠そうな声で電話口に出たヒロ君は、いつもと別人のようだった。
ヒ「今日はどうしたん?こんな早い時間に?」
私「いや何、夕方人と会うから電話出れんからね・・・ところで体調
  はどうや?もうすぐ退院やね」
そう言う私にヒロ君は
「ああ、その事なんだけど・・・俺から先生に言って延ばしてもらった
わ、今この状態で家に帰っても同じやし、父さんや母さんと話すことも
ないし・・・だからあと一ヶ月ぐらい入院して完治してから出ようと思
っとるんや」などと昨日までとは全く違ったことを言うのだ。
私は愕然とした、「それはお前の意思か?」と私は聞き返してしまった。
「うん」と、答える彼。・・・残念な事に、どうやらそれはヒロ君の意
思のようだ。
他にも今までの一ヶ月、私と喋った内容も大きく食い違っている。毎日
体調も悪く、薬の量も増えているとヒロ君は本当の事を告白してくれた。
「父さん、ガッカリしたか?」
ヒロ君はそう言い、私を気遣っている。
「お前がそう思うなら、そうすればいいさ・・・あのな、実はさっき母
さんと退院日の件で喧嘩しちゃってな・・・お前が退院したがっている
とばかり思っていたんでな・・・」
私がそう言いかけると
「一つ頼みがあるんよ、父さんの言ってることは正しいと思うよ、やけ
ど母さんにはあまりキツく言わんでやって欲しいんよ、これは俺が望ん
でることやしこれ以上迷惑かけるんは心苦しいから」と、ヒロ君。
なんと母親想いの優しい子なんだろう、私は自分が情けなかった。
だが待てよ、何で急に入院していたいなどと思ったのか?早く退院して
東京に遊びに来る予定をたてたり、エロ話を相談した昨日までのヒロ君
と・・・今日に限って冷静に自分の病気と向かい合うヒロ君と・・・ま
ったく別人格じゃないか!仮に一ヶ月入院を延長して、一ヵ月後に完治
出来ると思っているのか?これがこの病気(分裂症)の怖さなの
か?・・・・私はヒロ君の言葉の裏側に寒気を感じた。

刑務所などで長い刑期を務める囚人の中には、出所後の不安から人間関
係などの、ストレスを感じない刑務所での生活を望む者もいるという。
そういう人達は、私たちが考えるのと逆で出所日が怖いのだ。そういう
人の為にリハビリ期間まであるという。
短期間に薬漬けにされてしまったヒロ君が、薬の効果で囚人のようにな
ってしまったのだろうか?それで外界との接触を拒むような口ぶりな
のか?それとも母親の意向を汲んで、自分の気持ちを押し殺そうとして
の事か?それとも本当の重症患者なのだろうか?今の私には分からな
い、もうお手上げ状態だ。だが見放すわけにはいかない・・・どうすれ
ばいいのだろう?一応ヒロ君には「もし、病院からどうしても出たくな
ったら、また電話しなさい」と、言っておいた。突き放すのではないが、
軽率な日常会話でヒロ君の気持ちを揺れ動かすのは危険だと感じたか
らだ。私はこれから一日千秋の思いでヒロ君からの電話を待つことにな
るだろう。だが、果たしてその電話もいつ掛かってくるのだろうか?

私は触れてはならないパンドラの箱を、不用意に開けてしまったのでは
ないか?という不気味な憂鬱がある。生兵法は大怪我の元、私は分かっ
ていたつもりで実は何も分かっていなかったのではないか?
それを上手く説明してくれなかった前妻もどうかとは思うが、ここに至
って前妻の言葉が正しかったのだと思い始めた。そう考えると、私の前
妻への暴言の数々は許されるものではない。私は自分が間違っているの
かを確認したく、そうであれば謝罪したく前妻に電話したが、前妻は電
話に出ない。それは無理もないだろう、私はこうして言葉で手痛い失敗
をする人間なのだ。結果的に器量不足で離婚もされてしまったのだ。
元はといえば夫婦喧嘩で一番苦しんでいるのは子供、私たち元夫婦は年
中そんな姿を子供の前に晒していた。その蓄積が今回の病気の原因の一
つとも考えられる。それなら単なる夫婦喧嘩ではなく大罪である。
無意識のうちに大罪を犯した罪人が、無意識ゆえに罪を問われないとい
う理不尽な大罪に自ら気付くような、何ともやり切れない暗雲たる気持
ちが私を覆いつつある。自分が蒔いたかもしれない「不幸の芽」の尻拭
いもできぬまま、こうしてPCに向って日記を書く事しか出来ない人間
が私という男なのだろうか?自分が嫌になる。どうすればいいのだ?
真夏の太陽よ、アスファルトに落ちたアイスクリームのように、この憂
鬱も溶かしてくれないだろうか?俺は何でもする。

8日PM11時30分やっと前妻からメールあり。
私は許してもらった、そして早速注文が・・・注文といっても、いつも
のようにヒロ君の電話を受けてやって欲しいとの事だった。
今回は前妻の言う通りにしてみよう、ヒロ君の回復を祈りつつ。

62969(200)  9日  AM0時5分