こうありたい

どうにかパソコンの打ち込みにも慣れてきて、自分が何を書きたいのか
構成も、打ち込みながら出来るようになってきた。
元々、個人日記としてスタートであるから日記、日誌としての要素が強
くブログとしては、あまり力を入れてない。というか 日記とブログの
違いを知らなかったというのが本音ではある。
自分のブログを読み返してみると、多少の問題発言もあると思う。
私は上手く自分の立場を利用しているつもりなのだ、もし私がそれなり
の地位や身分のある立場の者であれば書いてはならない内容も多い。
私のように社会の最低限にある者であるから、真実も書けるし書いたと
ころで何の影響もないからだ。ちまたの週刊誌よろしくガセネタだろう
と思われていればいいからである。
私は個人を責めるのはあまり好きではない、どうせ真実を書き留めるな
ら、自分が逆立ちしても勝てない相手に一矢報いたいタイプである。
一矢報いたところで相手は痛くも痒くもないから問題も起きにくいし、
自分は一矢報いた事への満足感を得れるのだ。勿論相手が反撃にでれば
私など闇から闇へ葬りさられるのは明白であるのは言うまでもないが。
「寄らば大樹の陰」で身の安泰を僥倖するのが嫌いなだけなのだ、世渡
り下手なのだろうが、ゴマをすって生きる人生には不満である。たった
一度の自分の人生だ、天下は取れなくてもいいから豊臣秀吉ではなくて
明智光秀のように生きたいのだ。明智光秀の失敗は天下を取ろうと自惚
れた事と、自分を捨てきらなかった事の2点に尽きる。苦難の道ではあ
るがナンバー2の道を邁進すればよかったのだ。主君と崇める人間でも
所詮は人間なのだ、時には思いもよらぬ理不尽な判断もするだろうが、
それを耐え忍ぶのがナンバー2の役処ではなかったのではないか?
私は平和主義者である、そんな私にだって殺したい奴はいくらでもいる
ものだ。もし私が権力と金を手にしたら・・・考えただけでも恐ろしい
場面である、相手を殺めるという事は自分を殺めるのと同じ事だ。その
時私は自分の人格も崩壊してしまうだろう、だから今のままでいたい。
自分を抑制してくれる不自由が制御力として役立っているのだ。それを
解っているから日常の小さな幸せも感じ得れるし、優しい気持ちを人に
分けることも出来るのだろう。そしてそれが「生きる事」なのだろう。
希望も野望も人にはあるだろう、神や仏でない限り人は残酷な生き物だ
そうやって生きていかねばならない生き物が人間であるなら、私も人間
として生まれたなら、せめて自分を見失う事のなきようありたい。

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